Tea Time 不登校から見えること〜ありのままに〜

《Tea Time》は不登校の子どもを持つ親が集まり話すフリースペースです。
川崎市を中心に活動しています。
子どもの不登校から見えてくること、親が気付き変化した視点など
その時その時の気持ちを大切に書いていきます

2018年11月

川崎の親子を考える会 セミナーのご紹介

「川崎の親子を考える会」による セミナーのご紹介です。


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Tea Time自主講座「ひきこもるということ」(丸山康彦氏)無事終了

Tea Time自主講座「ひきこもるということ」(丸山康彦氏)が11月17日に無事終了しました。

沢山の方に申し込み頂き、ありがとうございました。
残念ながらキャンセル待ちとなった方もいました。
出来る事ならばすべての方に聞いていただきたかった・・・

丸山さんの講演では、
  ひきこもるとはどういうことか、
  うまくいくプロセス、
  家族はどう対応すべきか
についてわかりやすく話して頂きました。

その中でも私が個人的に心に残ったのは、
 日常生活をすべての基盤にし、特別扱い(問題視)しない接し方をする
という事でした。

子どもが不登校時やひきこもっている状態では、親が思うような反応が返ってこない事が多々ありますが、
家族としていつも通りの接し方を続ける事を大切にしたいと思いました。

丸山さんありがとうございました。

教育機会確保法見直しに向けて

先日もブログに教育機会確保法についてのべたが、
もう少し加筆修正したので掲載します。

この法律の正式名称は
「義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律」 という。(平成28年法律第105号)

そして、3年目に見直すということで、議連で再度検討される。 

3年目の見直しとということですが、

*教育機会確保法をこれ以上改悪しないでほしい。 
*個別学習計画や教育産業の参入は反対です。
*今の学校の置かれている状況を早急に見直し、
    学校を安心していられる場所にしてほしい。 

「教育機会確保法確保法」の理念に次のような文章があります。
(基本理念)
第三条 教育機会の確保等に関する施策は、次に掲げる事項を基本理念として行われなければならない
    一  全ての児童生徒が豊かな学校生活を送り、安心して教育を受けられるよう、学校における環境の確保が図られるようにすること
    二
    三

『公教育』 というのは、国や地方自治体が、「児童生徒が成長する過程を保障していくもの」
「いきていることを保障するもの」ではないのか。

教育産業に委託するものではないだろう。

『全ての児童生徒が豊かな学校生活を送り、安心して教育が受けられる』ように、
今の学校の置かれている状況を早急に見直し、学校を安心して居られる場所にしてほしい。

子どもたちの学校生活や教師の生き方をも縛るのが《学校スタンダード》である。
文科省が導入した《ゼロトレランス(不寛容)の方針》が、学校全体を息苦しくさせていると思う。

学校スタンダードのもとでは、子どもも教師も、自分で感じること考えることを放棄し、管理下に組み込まれていくことになるのではないか?
学校スタンダード通りにできない子は否定されて排除されていかないだろうか?
疑問を持った子どもの自由な発想を潰しはしないだろうか?
厳しい管理下にいることで、ストレスを感じるのではないか?
成長に必要なストレスではないと思う。

さらに、子どもたちが管理されている学校スタンダードの状況は、いじめやひいては不登校にも繋がる原因でもあると思う。
子どもたちは学校スタンダードやいじめなど、子ども同士、教師との人間関係で、傷つき休むことを余儀なくされている。自死を選ぶ子どもたちも後を絶たない。

そして教師自身は学校スタンダードの到達度を毎月自己評価し、その結果が自身の給与に反映するという悪循環に陥っている。

不登校「対策」をするならば、「学校対策」が急務ではないだろうか?


この法律では、「休むことを認める」と言いつつ、主眼は学習への導入である。
そもそも「休むこと」は誰かから許可をもらって休むというのではなく、個々人が持っている『権利』である。

不登校になって学習の遅れを心配する人は多い。
しかし「学び」は生きていることを支えているものだから、一生涯続いていくものだし、豊かな出会いの中で保障されていく。様々な出会いも必要である。

学校では、学ぶ楽しさを伝えてほしい。
評価がつきまとっていると、楽しみは生まれない。

子どもたちは必要に応じて様々な学び方を展開していく。
「本人が学びたくなった時」に、学ぶことにアクセスできる方法は考えられないのか?

若い人たちに対して、知識や才能?のみに評価の基準が偏ってはならない。
関心・意欲・態度など評価の対象にして点数化するなんて、もってのほかだ。
息苦しいだけで、楽しさなんてない。

評価ばかりが優先される学校現場から、子どもや教師を解放してほしい。


この法律「教育機会確保法」は、不登校の子どもを学校から排除し分断していくことに繋がる。
それは、残る子どもたちにも影響を与える。

子どもたちの気持ちにどこまで寄り添っているのだろうか?
子どもたちの気持ちを聞くことは、「尊重」することとは違う。
素直に聴くのである。この難しさに親は悩む。



この法律の見直しによって、
学ぶことの保障として教育産業の参入に繋がることを危惧する。
経済格差と子どもの貧困、家族環境の変化、より細かな大人の配慮が必要である現代社会で、教師が子どもたちにより細やかな配慮ができるよう労働環境の改善を求めたい。

この法律をこれ以上改悪しないでほしい。
 

学校スタンダードと教育機会確保法

ブラック校則のことはネットでも目にしていたが、
子どもたちの学校生活の中に
学校スタンダードがこんなに細かい管理で浸透しているとは…

ゼロトレランス(不寛容)という方針を文科省が導入して
学校の荒廃を食い止めようとした
「学校においては日常の問題行動からしっかり注意するなど、
その行為の意味やそれらがもたらす結果や責任などを理解させる
毅然とした指導が大切」『生徒指導要領』(2010年)

子どもたちの言動の背景にある気持ちを汲むことはない
こういうルールだからこう対処したと言えることを優先したわけだ



学校スタンダードという指導ルールが校則以外にもある
学校独自で決められているようだが、いくつか例を挙げてみる

・机の上の決められた位置に教科書、ノート、筆箱を置く
・鉛筆Bを何本、4Bを何本、消しゴムの大きさも指定がある
・質問されて手を挙げる時には、
       右耳に腕が付いて手を伸ばし、「ハイ、ハイ」と声を出してはいけない
・着席してる時は、体と机の間ははグー✊の分だけ空間があり、両足は揃え、背筋は伸ばす
       グー・ピタ・ピンというそうだ
・教室移動の際は、2列に整列して黙ってあるく
・給食は味覚過敏があっても、残食は許さない
・掃除の際は、無言清掃
・お礼を言う時の言葉と頭の下げ方の順番
 
さらに追い討ちをかけるのが、
「褒める教育」と称して、学校スタンダードと合致したことを褒める教師もいる
手を上げた時に耳に腕が付いてるとか、
グーピタピンができてるとか
などなど、、、
その子にとって「自分」を認められるとは何なのか?
自己肯定感は自分自身の存在そのものを肯定することだと思う

褒めることは難しいことだと聞いたことがある
その子にとって、少しでもずれていれば
その大人が「自分自身のありのまま」を
見てくれているかどうか はすぐ伝わってしまう。

そこをちゃんと押さえている言葉かけになっているのだろうか?
あるいは、「その子の存在をそのものを認める」場を
ほかのシチュエーションでは確保できているのだろうか?
あるいは、形だけ良ければいいと子どもが勘違いしないだろうか?

学校スタンダード通りにできない子は否定されて排除されていかないだろうか?
疑問を持った子どもの自由な発想を潰しはしないだろうか?
厳しい管理下にいることで、ストレスを感じるのではないか?
成長に必要なストレスではないと思う

教師自身も学校スタンダードの到達度を毎月自己評価し、
その結果が自身の給与に反映するようになっている


「教育機会確保法」
 (基本理念)
第三条 教育機会の確保等に関する施策は、次に掲げる事項を
基本理念として行われなければならない
    一 全ての児童生徒が豊かな学校生活を送り、安心して教育を受
        けられるよう、学校における環境の確保が 図られるように
        すること
     二
     三


ちゃんと認めてもらえることで、
自分を大切にしていく力につながる
自分を大切にすることができて、初めて他の人を大切にすることができる

多様な人がいるということを体験していくことで
自分への理解や他者への理解にもつながる

気持ちを受け止めてもらうことで、コミュニケーションの喜びにつながる
自分を信じ、自立して行ける
他人と繋がりながら…

学校スタンダードのもとでは、自分で感じること考えることを放棄し、
管理下に組み込まれていくことになるのではないか

『全ての児童生徒が豊かな学校生活を送り、安心して教育が受けられる』ように、
今の学校の置かれている状況を早急に見直し、
学校を安心して居られる場所にしてほしい

教師が子どもたちに向き合えるように、労働環境の改善を求めたい
さらに、子どもたちが管理されている学校スタンダードの状況は
いじめやひいては不登校にも繋がる原因でもあると思う。

不登校「対策」をするならば、「学校対策」が急務ではないだろうか?

経済格差と子どもの貧困、家族環境の変化の中、より細かな
大人の配慮が必要である。

この法律「教育機会確保法」は、不登校の子どもを
学校から排除し分断していくことにつながる。
休むことを認めると言いつつ、主眼は学習への導入である
不登校の子ども全てがフリースクールを利用しているわけではない
この法律の見直しによって、
学ぶことの保障として教育産業の介入につながることを危惧する

基本、別途お金がかかる
ネット環境を利用するためタブレットなどを購入する必要がある
経済格差でどうなるんだろう?

何よりも、子どもの気持ちはどうなんだろう?
不登校になった子どもは学校に傷ついている
それでも、学習を願っている場合は、
他者との比較で焦ってることが多い

学習よりも休むことが必要だったりする
しかし、親も子どもも今までの価値観に縛られて
すれ違いのままことを急いだりして
親子関係が厳しくなることもよくある

学校に行けない自分を責めているのは、
当の本人であり、そういう自分を許すのは一番難しい

その時期をどう過ごすか?
それぞれの親子で探っていくしかない。
でもね、今まで走り続けてた親の生き方に
ブレーキをかけて立ち止まらせてくれたのは我が子だった
感謝したい


『公教育』というのは、
国や地方自治体が、
子どもが成長する過程を保障していくもの
生きていることを保障するもの    なんですよね。

いろんな学び方があっていいのだけれど、
「学び」は生きていることを支えていくものだから
一生涯続いていくものだし、豊かな出会いの中で保障されていく。
学校では、学ぶ楽しさを伝えてくれるといいな。

若い人たちに対して、知識や才能?のみに評価の基準が偏ってはならない。
関心・意欲・態度など評価の対象にして点数化するなんて、もってのほかだ。
息苦しいだけで、楽しさなんてない。

差別や分断を助長するものであってはならない。
やっぱり、この法律は廃止してほしい。


こんなこと考えてる中、『教育』↓の中に
      『教育No.872  学校スタンダードと無寛容ゼロトレランス』
                                                                          かもがわ出版
良心的に子どもとの関わりを持とうとする教師の存在を
知ることができたのは救いでした

ただ、善意の搾取はいけない!
学校にゆとりを!

1日のうち8時間は自分の楽しみのために使おうよ
そのために、8時間労働という基準ができたんだって。

11月定例会 ご案内

今年の秋は、あまり紅葉せずに葉っぱが散ってます
台風の塩害のせいではないかという話も聞きました 

今月の定例会は、丸山康彦さんの講演会(11/17) の翌週です
感想など話しながら、いろんな気持ち話し合えればいいなと思っています



11月24日(土)14:00〜17:00
川崎市男女共同参画センター
使用する部屋は入り口ホワイトボードをご覧ください

フリースペースですので
入退室自由です
 
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